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10代の頃、いちばん聴いていたラジオ番組は「オールナイトニッポン」だ。
当時、ニッポン放送を直に受信できるラジオは所有していなかったが、幸運な事にネット局が1部、2部通しでやってくれていたので、普通のラジオやラジカセで聴く事ができた。 管理人が聴いていた時期には、すでにこの番組を含む「深夜ラジオ」の全盛期は過ぎていたのかもしれない。しかし、オールナイトニッポンには、月曜の「中島みゆき」木曜の「ビートたけし」そして土曜日はもちろん「笑福亭鶴光師匠」という豪華な面々が揃っていた。 中島みゆきの歌(とくに80年代半ばくらいまで)は好きで、レコードやCDを買ったり、コンサートにも行った。 オールナイトの最終回は、ハッキリ覚えている。テープにも完全録音した(もう、どこにあるのかわからないが)。これから、音楽の方によりいっそう力を注いでいくために降板する、というような説明があった。 ビートたけしのことを当時、興味がなかったティーンエイジャーは、いないだろう。最盛期はモチロン面白かったが、やがて番組を何かにつけて休むようになる。理由は「お化けが出た」から、とかそんなことばかりで、最後の方は「たけし軍団のオールナイトニッポン」になっていたような気もする(笑)。 このようにフェードアウトしていったので、最終回の記憶はない。 鶴光師匠は、やはりイチバン聴いたし内容もよく覚えている。アシスタントの女の子はたいてい「あまり売れてないアイドル」で、エッチな言葉を師匠に仕込まれたりしていたのだが、その後で売れていった子が何人もいる。 「スケベなおっさん」という印象だが、その当時の師匠は30代半ば、今の管理人よりずっと若かったわけだ(笑)。 最終回のことも覚えている。 たしか、師匠がこれまでに出したレコード(結構シングルを出していて、「うぐいすだにミュージックホール」という曲はかなりヒットした)を当時のエピソードを交えて流したり、番組の歴代のディレクターが集まって思い出を語ったり、という内容だったと思う。 しかし後に、この最終回が「録音」だった、ということをどこかで聴いてショックを受けたのも覚えている。 この3人がやはり楽しみで、他の曜日も聴くには聴いていた(月、木、土以外は結構、パーソナリティーの変更が多く、中には数ヶ月で降板してしまった人もいたようで、かなり厳しい争いだったらしい)が、面白くない日や放送がない日曜などには、録音したビートたけしなどのカセットテープを聴きながら寝たりしていた。 そう、基本的に「寝ながら」聴いていたのである。 この番組は、1時から3時までの「第1部」3時から5時までの「第2部」という構成になっているのだが、土曜日はスペシャルで、鶴光師匠が4時間通して担当していた。つぎの日が日曜とはいえ、毎週最後まで聴く事はできず寝落ちすることが多かったと思う。 必死で聴いていた時代のパーソナリティーが降板していき、管理人も徐々にオールナイトを聴かなくなっていったわけだが、この番組はいまでも管理人の中で「面白さの基準を計るメートル原器」として輝き続けている。 PR |
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ビッグバンド・ジャズの雄、カウント・ベイシー・オーケストラがまさに今、来日公演の真っ最中。もちろん、故ベイシーの精神を受け継いだ後継者がリーダーを務めている。
さて現在、ふつうに「JAZZ」と言えば、Be-bop以降のいわゆる「モダン・ジャズ」の事を指すであろう。 管理人もモダン・ジャズは好きで、アナログ時代にはチャーリー・パーカーなどをよく聴いて、レコードも結構集めていた。なお、他のジャンルと同じく「広く浅く」がモットーの管理人は定番、名盤のお墨付きのアルバムから節操なく買っていたものだ。 今でも大好きなのはジョン・コルトレーンとソニー・ロリンズ。 コルトレーンは管理人が生まれる前に亡くなっているが、ロリンズはラッキーなことに2回もコンサートで生演奏を聴く事ができた。生で聴いた「セント・トーマス」の興奮は忘れられない。 やはり「ホーン系」がリーダーをつとめる作品が好きなようだ。ピアノ系で好きなのはデイヴ・ブルーベックなど。 しかし、管理人が「JAZZ」と言ったとき、それは「スイング」及び「ニューオリンズ・ジャズ」の事を指すのである。 スイングから語ると、No.1はグレン・ミラー・オーケストラ。すべてのスタジオ録音の音源を所有している。伝記本も読んだ。 もちろん、映画「グレンミラー物語」も忘れてはいけません(笑)。 曲については、あらためて語る事もないくらいスタンダード化しているが、ほとんどの人が現在耳にするのはいわゆる「再録音」盤であろう。良い音で聴きたい気持ちは分かるが、ぜひ圧倒的にダイナミックな「オリジナル録音」の方も聴いていただきたい。 グレン・ミラーと並ぶ「キング・オブ・スウィング」ベニー・グッドマン・オーケストラも大好きだ。ダンスを踊るためのBGMだったジャズを、鑑賞するための音楽に昇華させた功績は大きい。 そして、「Be-bop」創成期の伝説的ギタリスト、チャーリー・クリスチャンを加入させるなど、「人種の壁」をあの時代に取っ払ったことも忘れてはならない。 そして、デューク・エリントン・オーケストラだ。 1920年代後半から第二次世界大戦期が黄金時代だが、とくにベースのジミー・ブラントンが居た頃の鉄壁の布陣は最強だ。 このバンドも名曲を何度も再録音しているが、オリジナルに勝るものなし。 ちなみに、管理人は上記の3バンドすべてのコンサートを観ている。(注 リーダーは、全て後継者です)自慢になってスミマセン。 次回以降にはニューオリンズ・ジャズや、ジャズボーカルなどを語っていきたい。 「スウィング・ボーイズ&ガールズ(2)20年代のサッチモ」はコチラ |
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管理人がTeen-agerだった「80年代」。
当時は、音楽的に「ハズレくじ」を引いた時代だと思っていた。それはモチロン、黄金の60年代や70年代と比較してしまうからであろうが、自分にとって決定的に影響を与えてくれるようなビッグなアーティストがいない、という気持ちもあったと思う。 今日はまず、当時の「日本の」音楽シーンを語っていこう。 80年代の前半、それまでの「歌謡曲」と「ニューミュージック」の2強時代から新たに「アイドルポップス」がひとつのジャンルとして勢力を伸ばしてゆく。(モチロン、戦前から続く「演歌」の系譜は別にある)それは芸能人の宝庫である、福岡県出身のあるアイドル歌手のデビューがキッカケであった。 アイドルは70年代には「歌謡曲」のジャンルに属していた。オーディションやスカウトなどで勝ち上がった歌手の卵は、作詞家や作曲家のもとで徒弟関係というカタチで修行し、レッスンを重ねた上でデビューする。 師匠である先生方は60年代の「ビートルズ」そして日本のグループサウンズ時代に学んだ人たちであり、さらにその人たちの師匠は戦後、そして50年代の「ジャズ」から入ってきた人たちだ。管理人は70年代の歌謡曲も大好きなので、当時の作詞家、作曲家の人たちについては改めて語りたい。 そして一方の「ニューミュージック」だが、60年代のビートルズは歌謡曲の人たちと共通だが、こちらはピート・シーガーやボブ・ディランなどのアメリカン・フォーク、自分たちで曲を作って(メッセージ性のある歌を)歌う、という流れに近い人たちだ。 60年代後半には「フォーク」はひとつのムーブメントとなり、高石ともや、岡林信康などのスター、そして吉田拓郎が登場する。70年代中期には荒井由美など、それまでのフォークを革新していく新勢力が台頭し、「ニューミュージック」となるわけである。 そして80年代の幕が上がるわけだが、アイドル界ではキャンディーズ、ピンクレディーのブームが終息。しかしまだまだ既成のアイドル・システムは健在であり、アイドルのレコードは「歌謡曲」の棚に並べられていた。 そしてちょうど1980年、松田聖子がデビューする。 彼女の出発点は、既成の70年代システムからであるのは間違いないが、デビューしてからの活動内容、そして楽曲の充実度は、新しい時代を感じさせるものだった。 なかでも、やはり楽曲の良さだ。ニューミュージック・ロック系のアーティストの曲をあれだけ取り入れられたのは、彼女の所属レコード会社が「CBSソニー」だったこともラッキーな要素のひとつだったのではないだろうか。 それにしても今思うと、デビュー当時の松田聖子が「歌がうまくない(当時はもっと露骨な表現)」と言われていたのは驚きだ。 彼女の歌声は、街で流れていても、思わず立ち止まって耳を傾けてしまうような、人を引きつける「なにか」があったと思う。 彼女の出現以降、アイドルはシングルだけでなく「アルバム」にも力を入れていくことになる。松田聖子本人はモチロン、その後にデビューした中森明菜なども「アルバムの中の名曲」が多い。 そう考えていくと、「歌謡曲」と「ニューミュージック」を結婚させて「アイドルポップス」を産んだと言える彼女の功績は大きいだろう。 80’s〈洋楽編〉に続く |
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「ライ麦畑でつかまえて」で知られるアメリカの作家、J.D.サリンジャーが先日、91歳で亡くなった。
彼は1944年、第二次世界大戦の趨勢を決することになった「ノルマンディー上陸作戦」に参加した兵士のひとりである。 この作戦の詳細についてはWikipediaなどで調べていただくとして、今日はこの大作戦を扱った二つの映画を語ることにする。 1、「史上最大の作戦」 これは決定版と言えるだろう。コーネリアス・ライアンの原作「いちばん長い日」をもとに、ドキュメンタリータッチで作戦の全貌を俯瞰的に描いた大作で、これでもか、というくらいのオールスター・キャストである。 戦争映画が好き、嫌いにかかわらずこれは一度は観るべき映画であろう。実際の戦闘からわずか「18年」しかたっていない時期の作品だが、ここまでエンターテイメント性も取り入れた作品を作るとは、ハリウッドの底力を感じさせる。 出演もしている歌手のポール・アンカが作曲した主題曲「史上最大の作戦マーチ」は、彼の代表作のひとつになった。 もともと白黒の映画だが、コンピューターで着色した「カラーライズ版」が後に製作され、たしかテレビでも放映されたと記憶している。管理人はカラー版のVHSビデオを買いました。 ちなみに、「史上最大の作戦」という邦題を付けたのは、あの水野晴雄さんだそうだ。 2、「ノルマンディー 将軍アイゼンハワーの決断」 以前に管理人のもうひとつのブログのコチラの記事で取り上げた作品。 この作戦を決断した、当時の欧州連合軍の最高司令官であったアイゼンハワー将軍の、作戦決行までの数日間の苦悩、そして決断を描いている。 戦闘シーンはまったくと言っていいほど出てこないが、これは司令部をメインに描いた作品であることと、いわゆる「予算のある大作」ではないということの両方の理由があるだろう。 脚本、そして俳優の演技も素晴らしい。主役のトム・セレックはもちろん、わき役もしっかりしている。 極端に言えば「動」の史上最大の作戦、「静」のアイゼンハワーと言ったところだろうか。 管理人は映画の中でも「戦争映画」には特に思い入れが深いのだが、物事を真正面から描いた大作よりも、それにまつわる「サイドストーリー」というか「小品」のほうに好きな作品が多い。集団の中の「ひとりひとり」を描いた作品。「ノルマンディー 将軍アイゼンハワーの決断」も、このタイプの作品と言えるだろう。 優れた映画監督は、「動」と「静」どちらも名作を残している。このあたりの話は、またいつか語りたい。 |
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さて、先日のブログで予告した”司馬遼太郎さんの作品を語る”だが、「これは無理」という結論に達した(笑)。
最大の理由は、やはり個々の小説の感想というものは「ネタバレ」を多分に含むということ。管理人もコンサートを観る前にセットリストを知りたくない、というタイプなので、これはしょうがない。 司馬さんの歴史小説は、ミステリーや推理小説みたいに結末が秘密、というモノではないのだが、やはりこれから読む、という人にはまっさらな気持ちで読んでいただきたい。 そこで、管理人が思う「司馬遼太郎作品の魅力」をサラッと箇条書きにしてお茶を濁すことにする。ただし、これから司馬さんの作品を読もうという人は、やはり見ない方がいいと思うので、隠すことにする。 |
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